そして召し上がれ。本をしゃぶりつくすように。

新書だけが本ではない 古今東西誰かに見つかるのを待っている本がある

恐怖

恐怖:おそれること。こわいと思うこと。また、その気持ち。

 

 

何しろ体が凌ぎ良くなったために足の弱りも忘れたので、道も大きに捗って、①まずこれで7分は森の中を越したろうと思う処で五、六尺上の樹の枝から、ぽたりと笠の上へ落ち留まったものがある

 鉛の錘(おもり)かと思う心もち、何か木の実でもあるかしらんと、二、三度振って見たがくっついていてそのままには取れないから、何心なく手をやって掴むと、滑らかに冷りと来た。

 見ると海鼠(ナマコ)を裂いたような目も口もない者じゃが、動物には違いない。②不気味で投げ出そうとするとずるずると辷(すべ)って指の尖(さき)へ吸い付いてぶらりと下がった、その放たれた指の尖から真赤な美しい血がたらたらち出たから、吃驚して目の下へ指をつけてじっと見ると、今折り曲げた肘の処へつるりと垂れ掛かっているのは同じ形をした、幅が五分、丈が三寸ばかりの山海鼠(やまなまこ)。

 呆気にとられて見る見る内に、下の方から縮みながら、ぶくぶくと太って行くのは生き血をしたたかに吸い込むせいで、濁履歴(にごりれき)のある沼でも、このくらいな蛭はあろうとは思われぬ。

 

泉鏡花 高野聖

 

 

肘をパサリと振るったけれども、良く食い込んだと見えてなかなか放れそうにしないから不気味ながら手で抓んで引き千切ると、ぷつりといってようよう取れる、しばらくもたまったものではない、いきなり取って大地で叩きつけると、これほどの奴等が何万となく巣を作って我が物にしていようという処、かねてその用意はしていると思われるばかり、日の当たらぬ森の中の土は柔らかい、潰れそうにもないのじゃ。

 ①ともはや襟のあたりがむずむずして来た、平手で扱いて見ると横撫に蛙の背中をぬるぬるとすべるという、やあ、乳の下へ潜んで帯の間にも一匹、蒼くなってそっと見ると肩の上にも一筋。

 思わず飛び上がって総身を震いながらこの大枝の下を一散にかけぬけて、走りながらまず心覚えの奴だけは夢中でもぎ取った。

 何にしても恐ろしい今の枝には蛭が生っているのであるとあまりの事に思って振り返ると、見返った樹の何の枝か知らずやっぱり幾つということのない蛭の皮じゃ。

 ②これはと思う、右も、左も、前の枝も、何の事はないまるでいっぱい。

 私は思わず恐怖の声を立てて叫んだ。すると何と?この時は目に見えて、上からぽたりぽたりと真っ黒な痩せた筋の入った雨が体へ降りかかって来たではないか。

 

泉鏡花 高野聖